アイム・ア・ロサー物語
小学校2年生の時に出会ったユニコーンのある曲。必死で覚えた歌詞のフレーズを頼りに探し求め、4年後に見事巡り合うことになった感動(?)の物語。
私が人生で初めてファンになったアーティストはユニコーンだった(・・・と公言しているが、実のところチェッカーズのフミヤ氏である。しかし、それはあまり記憶に残っていない5歳の頃のことなのでノーカウントにしている)。
小学校2年のときに親に連れられて5歳年上の親戚のお姉さんの家に遊びに行ったときに部屋でかかっていたCDこそが、奥田民生氏がボーカルを務めるユニコーンのアルバム「パニック・アタック」であった。その1曲目に収録されている『I'm a loser』を聞いたときに、私のその後の音楽の指向性が決まった。とにかく、こんなに良い曲があるものかと雷に打たれたような衝撃を受けたのだった。
しかし、小学生である。CDラジカセ(懐かしい響き)も持ってなければお金も無い。もちろんYOU TUBEなんてものはまだ無い時代である。今流れているこの良い曲を絶対に忘れないようにしようと思って、お姉さんとの会話そっちのけで音楽を覚えようと耳をダンボにして聞いていた(ダンボというたとえがもう古くてスマン)。そして、そのかいあって私は序盤の歌詞を覚えた。
“届かない 身動きも出来ない
ひとかけらの夢崩れてく
”出典:UNICORN(1988) アルバム「PANIC ATTACK」より 「I'M A LOSER」歌詞
「♪とーどーかない みーうーごきーもでーきーない」とボーカルの奥田民生氏が冒頭にアカペラで歌う部分を、繰り返し頭の中で唱えて、毎日忘れないようにしていた。それはいつかまたあの曲を聞きたいという一心であった。
それなのに、私が一番初めに買った人生初のCDは小学校4年生のとき、米米CLUBの浪漫飛行のシングルCDであった。我ながら、これが子供のよくわからないところである。しかもその時、私個人としてはCDラジカセを持っておらず、家には2歳上の姉が誕生日に買ってもらっていたCDラジカセがあるだけという環境であった。
兄弟姉妹あるあるだと思うが、たいがい姉兄の所有物を勝手に妹弟が使ってはならないという決まりが設けられる。そしてこれもあるあるだと思うが、姉兄が不在の間にたいてい妹弟は勝手に姉兄の所有物を使うものである。私は姉の行動パターンを把握していて帰宅時間もおおよそわかるので「奴が帰ってくる前までに使用した痕跡を消しておけば良いだけだ」と、姉のCDラジカセで浪漫飛行を何度となく愉しんだ。しかし要領が悪いのか何なのかわからないが、たいがい不在中に使用したことがばれてしまう。
姉「勝手に使うなって言っただろーが!」
私「ちょっとだけならいーじゃん!けち!」
この懐かしいやりとり・・・(遠い目)。
そんなわけで、たまにコソコソ姉の部屋で浪漫飛行を聞いてはいたが、なかなか聞きたいときに聞くことができるという環境では無かった。インターネットも無い時代のこと、冒頭の歌詞を少し覚えていたところで、それが果たして何という題名の曲か、シングルCD(8cm!)なのかアルバム収録なのかすらわからないのである。ユニコーンのアルバムにたどり着くまでにはまだまだ遠く困難な道のりなのであった。
ユニコーンの曲を求めていながら米米CLUBのCDを買ったように、小学生の私の頭の中はとっ散らかっていた。音楽とファッション(独特なこだわり。でっかいキウイのTシャツとか)が好きというのは一貫していたのだが、こと音楽に至ってはこの時期かなり興味の幅が広かった。世にいう「ミーハー」というやつである。
親戚のお姉さんの家でユニコーンの曲に感銘を受けた少し後、私は「たま」に夢中になった。人気テレビ番組「イカすバンド天国」略称「イカ天」が私の中に芽吹いた音楽の芽に魂の火を灯したのだ。当時小学3年生、ませガキである。あの当時イカ天を見ていた人ならわかっていただけると思うが、たまが登場したときの衝撃はすごかった。音楽の良し悪しはわからなかったが、あのビジュアルと奇妙な音楽に私は夢中になった。・・・と、たまの話題はまたの機会に書かせていただくことにして、とにかくこの時期の私は音楽アンテナがビンビンであったことをお伝えしたい。
まだこそこそ姉のCDラジカセで浪漫飛行を聞く生活をしていたそんな頃に、わが家の音楽文化レベルが上がる出来事があった。うちの父親は道楽者なのだが、矢沢永吉氏のレコードが聴きたいという理由で、ある日突然コンポを購入したのだ。レコード、CD、カセット、ラジオが聴ける大きなコンポ、そして大きなスピーカーが2つ、フルセットで2DKの貧乏団地の居間にやってきたのだ!これには家族全員大興奮だった。大人になった今なら思う、コンポ買う前に滞納している家賃を払え、と。
しかし、まさかわが家が家賃を滞納している家庭だということを知るよしもない当時の私は、立派なコンポが来たことに心の中で大喜びした。これでやっとコソコソしないで浪漫飛行が聴けるのだ、と。
当時、8cmシングルCD単体で再生できる機器と、12cmCDと同じ大きさにするアタッチメントを付けないと再生できない機器があった。わが家のコンポはちゃんとCDを乗せるトレイに8cmCD用の溝が入っていたのでアタッチメントは必要無かったのだが、家族みんな仕組みをよくわかっていなかったのでわざわざアタッチメントを付けて再生していた。懐かしい田舎者あるあるである。
ある日、父親が「レコード買いに行くぞ」と家族みんなを車に乗っけて中古レコード店へと連れていったことがあった。父親の目的はあくまでも矢沢永吉氏のレコードを聴くことなのであるが、この時点ではコンポを買っただけで、わが家には永ちゃんはおろかレコードが1枚もなかったのだ。
レコード店に着くと両親はいそいそと自分の興味のあるアーティストのレコードが無いかを探しはじめ、姉は姉であまりレコードには興味が無いみたいで(姉はとっくにCDラジカセをゲットしていたため)店内をプラプラひやかしていた。私はというと、このとき本物のレコードジャケットというものを初めて見たので「思ってたより大きいんだなあ」としみじみ思った。
それまでは「小学〇年生」的な雑誌にたまに付録で付いてくる赤いペナペナのソノシートのレコードしか触ったことが無かったので、縦に陳列されているレコードを持ち上げたときの重みにも驚いた。こどもで背丈も低いため、レコードを持ち上げてのレコード探しは困難を極め、私は早々に諦めて姉と同じように店内を冷やかすことにした。すると、足元の段ボールに詰められた特価品のレコードが目に入り、これは探しやすい!と嬉々としてその箱に入っているレコード達を吟味し始めた。
しかし、その箱の中には私の音楽アンテナとは少々ベクトルの違うアーティストのレコードしか入っていないようだった。1990年当時ですら「ふ、古っっ!」という印象を受けた名もなき80年代アイドルの面々が印刷されたジャケットに世の無常を感じた(後付けです)。そんな中、でっかいLP盤のどピンクのジャケットに唯一知っている名前を見つけた。「とんねるず」である。
当時とんねるずのテレビ番組「とんねるずのみなさんのおかげです」のファンだった私(ミーハー)は、とんねるずがたまに歌を歌っているのは知っていたが、手にしたどピンクのレコードに記載されている曲順の中に知っている曲を見つけることはできなかった。しかし、せっかく来たレコード店でろくなレコードに出会えず心細い思いをしていた私である。知っている名前を見ただけで嬉しくなって、知らない曲ばかり収録されているそのレコードを購入することにした。ついでに、せっかくだからと名もなきアイドル達のレコードの中から1つを無作為に選んで購入することにした。だって150円だったんだもん(とんねるずはさすがの500円)。
そんなこんなで買い物を終え、おのおの戦利品を抱えてホクホクと家に帰った(姉だけは何も買わなかった)。当日ずーっとわが家の居間では永ちゃんの曲が流れていた。残念ながら矢沢永吉氏のダンディズムを理解できない私はあまり楽しめなかったが、両親はとても嬉しそうだった。貧乏団地で夜遅くまで大音量で音楽をかける・・・、狭いベランダで焼肉パーティーしたときも苦情が来なかったし、ほんとおおらかな時代でしたね(白目)。
そしてとうとうやってきた平日。うちの父親は仕事で土日しか帰ってこなかったし、母は夜の8時くらいまでパートに出ていたので、学校から帰ってからは自由に過ごせた。当時通っていたそろばん塾は16:30からなのでまだ時間があるし、私はとんねるずのレコードを聴くことにした。レコード台にセットして再生ボタンを押すと、自動で針が動いていく。そしてスピーカーから聴こえてきたのは童謡のような曲「森のおねぼうプーさん」である。当時ませガキだった私はこの曲を聴きながら苦笑するしかなかったが、このレコードに収録されている他の渋い曲を理解するほどませてもおらず、結局レコードを聴くのをやめて浪漫飛行のCDを聴くことにしたのであった。
その後も、姉の購入したCDをコソコソ聴いたり、当時大ヒットしたドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌、小田和正氏の「ラブストーリーは突然に」にハマってみたり(母親がCDを購入した)、いろんな刺激を受けつつもやはりあの時に聴いたユニコーンの曲を胸に抱きながら毎日を過ごしていた。
そして1992年、小学校6年生になった私にいろいろな転機が訪れるのである。まず、誕生日に念願のCDラジカセを買ってもらったのだ。今は無きサンヨーのCDラジカセで、丸くて黄色くてかわいくて、しかもタフでお気に入りだった。
その後、人生初のCDアルバムを購入することになる。そのアーティストはやはり・・・米米CLUBだ(自分でも謎)。なぜか私の音楽的初体験を奪っていく米米CLUB。そんなにファンというわけではなかったのだが、やはり米米CLUBには人を惹きつける魅力があるのであろう。いつもユニコーンを求めていながら米米CLUBを買う・・・不思議である。
購入したアルバムは「Octabe」、言わずと知れた大ヒット曲「君がいるだけで」が収録されたアルバムである。いや~流行ったよね。ドラマも良かった。歌番組でトークをするときの中森明菜氏はそれはもう消えそうなか細い声で話すのだけれど、このドラマのときは「由美子ォ(ダブル主演の安田成美氏の役名)」と、ハスキーな声で怒鳴るように話していてとてもかっこよかった。
話が脱線したが、私の激動の小学6年生時代の最大の出来事、それは・・・とうとうあの時に聴いたユニコーンの曲の名前が判明することである。これは支離滅裂な行動をしながらも、あの曲を追い求め続けた私の粘り勝ちといったところであろう出来事であった。
ある日私は近所の本屋で、特に目的もなく面白そうな本はないかと探していた。そして音楽コーナーを見ていたところ・・・背表紙に独特のフォントで書かれた「ユニコーン」の文字を見つけた。手に取ってみると、表紙には独特なフォントで「UNICORN」と書いてあった。
当時私は英語塾に通っていたので簡単な英単語は読めたのだが、「U」を「ゆ」と読むことがあるということを知らなかった。背表紙にはユニコーンとカタカナで書いてあるので、たぶんユニコーンだろうとは思った。しかし、これが本当にユニコーンの本であるという確信が持てなかったのだ。しっかりと確信を持ってから購入したかった。なぜならその本は2500円もするのだ。そして表紙にも裏表紙にも説明は書かれていないし、スリーブ入りの上フィルムパッケージがなされているため中身を確認することもできず、いったい何の本かもわからなかった。なので買わなかった、その日は。
後日、英語塾の先生にUNICORNはユニコーンと読むので間違いないことを確認して、とりあえずあの本はユニコーンの本であろうという確信は得た。しかし、私が好きなあの曲の雰囲気には似つかわしくないほどカラフルでポップなデザインの表紙だったため、この本のユニコーンは本当に私が探しているユニコーンなのだろうか?という疑念が付きまとった。同じ名前のアーティストがいないとも限らない、その当時は本気でそう思っていた。
それから数か月が過ぎ、がっつり非行に走った姉を抱えたわが家は修羅場と化し、私は私で無気力に陥り担任教師に前髪を引っ張られて脅されるなどしながら(さらっと恨み節)、お正月を迎えた。
お正月といえばお年玉である。当時はまだ親戚も多数生きていたので、田舎に帰省すればそこそこお金が貯まった。だいたい3万円くらい。ありがたい臨時収入である。
余談だが、小学3年生のときに祖母が初期預け入れ金1000円で郵便貯金の口座とはんこを作ってくれて、「貯金をしなさい」と言ってきたことがある。祖母はコツコツ型の実直な人だったので、孫に蓄財というものを教えたかったのだと思う。そして私は、言われたとおりその次のお正月にもらったお年玉をそこに入金した。貯金をするということ自体がなんだか嬉しくて、お金をためて何を買おうかとむふむふしながら通帳を眺めていた。
そんなある日、また次のお正月が来る前に通帳を確認したところ、200円くらいを残して全て引き出されていたことに気づいた。私は泣いた。仕事から帰ってきた母にそれを伝えると、母は怒って「お父さんだね」と言った。そして週末に父親が帰宅したときに母は怒って父に詰め寄った。最初は笑って「ばれたぁ?ごめんごめん」などとおどけていた父親だったが、こちらが怒って引き下がらないでいると、キレた。世にいう逆ギレである。そして当然、そのお金は返却されることは無かった。「無いもんは無ぇ!」とのことである。たしかにお金がある時は誕生日やクリスマスにプレゼントを買ってくれるので、その時期は本当にお金が無かったのかもしれない。毎週欠かさずに競馬には行っていたけれど。
その出来事以来、私は貯金というものをしなくなった。もらったらすぐに使うという、宵越しの金は持たないスタイルがここに完成したのである。祖母の孫への蓄財教育は、皮肉にも息子である私の父親によって木っ端みじんに破壊されたわけである。合掌。
そんなわけで小学校6年生のお正月に話を戻すと、金を使うことしか考えていない私は当然ユニコーンの本を買うことを考えていた。3万円も持っているのだ、余裕である。
田舎から戻った私は、さっそくお金を握りしめて本屋へと向かった(徒歩10分)。そして念願の本を購入して、すぐに帰宅して本を開く。単行本でスリーブ入りの本を初めて見たのもこの時であった。
本の中を見て、私は歓喜した。歓喜に打ち震えた(まじで)。そこにはユニコーンの曲の歌詞が100コくらい(50コくらいかも。うろ覚え。)載っていたのだ。たしかランキング形式で曲が載っていて、私はその時かろうじて「大迷惑」という曲を聴いたことがある程度だった(姉がシングルCDを持っていたため)。
しかし、大迷惑の歌詞が載っているということで、これはやはりあのユニコーンの本で間違いないんだなと確信した。あとはもう調べるだけである。この記事の序盤で引用した部分の歌詞を、目を皿のようにして探す、探す、探す。・・・と、あった!何位かは忘れたけどそこまで上位でもなかったような気がする。とにかくあった。やっと見つけた。感動の瞬間である。
そうして、曲名は「I'M A LOSER」ということが判明した。しかし私は先ほども申したように簡単な英単語しか知らなかった。「アイム ア」までは読めたが「LOSER」の読み方がわからなくて「ロサー」と読んだ。さすがに今は難なく読めるけれども、この曲のことを思い出すと今でも「アイム ア ロサー」という響きが最初に頭に浮かぶ。私の中では永遠のアイムアロサーである。
・・・と、きれいに終了しそうになったが、私のアイムアロサー物語はここで終わりではない。まだ曲名が判明しただけである。しかしこれは大いなる前進であります。金ならある!あとはCDショップに行けばいーのさ!
というわけでさっそく近所の複合型スーパーの中にあるCDショップへ(徒歩30分)。当時のCDショップはシングルとアルバムで売り場が違っていた。私は迷うことなくアルバム売り場へと直行し、や行の棚へと突進したのである。目指すユニコーンコーナーを見ると、3枚のアルバムが売っていた。アイムアロサーが収録されているアルバムはどれか、1枚ずつ見ていく。まず1枚目・・・無い。2枚目・・・!!?あった。あったのよ1曲目に。いきなりすぎてビックリしたが、アイムアロサー(I'M A LOSER)と書いてある。これだ。苦節4年・・・やっと見つけたのだ、あの曲を。
いそいそとお会計を済ませて家路を急ぐ。帰宅するまでに事故で死んだりしたらイヤだな、と思いながらいつもより急ぎ足で歩いた。やっと聴けるのだ、あの曲を。
そうして帰宅して聞いたアイムアロサーは最高だった。ユニコーンは天才だと思った。子供なので歌詞については言葉まんまの意味でしか理解することはできなかったが、メロディーラインの切ない感じが何とも心を震わせた。Aメロ→Bメロの転調、そしてBメロ→サビの転調で元の調に戻るという流れは、苦悩した後に吹っ切れるような、迷いの中にも清々しさがあるような小気味のよさがあり、これは今に至るまで私の好む音楽の指向に影響を与えることとなる。
これで私のアイムアロサー探しの旅は終わったわけであるが、アイムアロサーはその後も15年に渡って私のプレイリストにレギュラー入りし続けた。小室ブームや浜崎あゆみ氏など、時代を彩ってきた数々の流行曲に挟まれながらも私の中で輝きを放ち続けていたアイムアロサー。この曲を聞かなくなった理由はなんだろうかと振り返ってみると、やはり私が年を重ねたことが第一の理由のように思う。
子供の頃に聞いた歌詞と今聞く歌詞とでは、同じ歌詞でも浮かぶ情景が全く違うものとなった。私の人生の前半を支えたのは「夢」であり、私にはいつも夢があった。夢は希望であり、自分がどんな状況に置かれていても何ひとつ諦める理由にはならないのだと私を励まし続けた。しかし、人生ではどうしても手に入らないものがあるということに、いつかは気づくものなのである。そうしてひとつひとつ夢を失っていくうちに、私の中で「夢」というものの価値が大暴落を起こしていったのだ。
アイムアロサーを聞くたびに"ひとかけらの夢 崩れていく"で感じていたあの絶望感が、今はもう自分の中にあるリアルな物として感じられない。むしろ、「そういう時期あったよねー」みたいな、若く青臭い曲という印象へと変化していった。そんなことから、この曲をしばらく敬遠していたのだが、人生の半分を生きてみるとまた違った価値観に変化するもので「夢」は「夢」として、今自分が生きている現実にあるものとして捉えることができるようになってきた。それはもう、そのままで、ただそこにあるものなのだ、と。
これは私にとっては「月」の存在に似ていた。私は幼稚園生くらいの頃、晴れた夜空の星の海の中でぽっかりと浮かぶ月によく手を伸ばしていた。銭湯から歩いて帰る道や田舎へ向かう車窓から明るい月を見上げては、手を伸ばして「もうちょっとで届くのになあ」と本気で思っていた。体感では、1メートル先にあるリモコンに手を伸ばすような感覚で、本当にもうちょっとで届きそうだったのだ。そしてそれから年齢を重ねると、もはや月に手を伸ばしても届かないことを理解した。でも今度は月に行きたいと思うようになった。宇宙に憧れて、いつか月に行くんだと本気で思っていた。しかし、これもどうやら実現できそうもないことに気づき、月への興味を失った。月を見上げたところで何の価値もない、と思うくらいに現実主義になった時期があった。そして今、夜道を歩いていて月が出ていたら「大きいなあ」「きれいだなあ」と眺めるし、家の中に居るときにわざわざカーテンを開けて月を眺めたりはしない。それはもう、そのままで、ただそこにあるものなのだ。
そのような見方を手に入れて、私は再び敬遠していたアイムアロサーを聞くことができるようになった。最初にこの曲を聞いたときの感動も思い出せるし、思春期の頃にこの曲を聴いて酔いしれていたときの胸が苦しい感じも思い出せるし、この曲を敬遠してやさぐれていた気持ちも思い出せる。この曲を眺めるように聞けば、その時どきの自分が蘇る。
この先、壮年期老年期になったらまた違う眺めが見えるのかもしれない。私のアイムアロサー物語は、生きている限り続くのだ。