Solo-ソロ-
ラーナー・ダスグプタ著の『Solo-ソロ-』の書評です。
実際の人生と想像の世界の2部構成になっている一風変わった物語を通して、人生とは果たして何たるかというひとつの結果を見つめて考えてみました。
戦争や犯罪のニュース、人生のステージが変わる度に身の回りで生じる様々な問題、日常の中にある心配事。
何があっても絶対に止まることなく流れる「時間」というものは、世界で唯一平等で公平なものかもしれません。
そんな止まらない毎日の中で少々疲れを感じてきたときは、脳内トリップでリフレッシュするのも一案です。
現実では何ひとつ創り出すことが出来なくても「想像」という産物を自分の中に生み出すことは出来ます。それを目に見える形で表現するのが小説家だったり芸術家だったりしますが、自分の外に形として出た時点で、それは「想像」ではなく現実に創り出した「作品」という「実体」を持つようになります。
しかし、この「作品」が誰の目にも触れること無く創作されたものだったとしたら、それは限りなく「想像」に近い「実体」なのかもしれません。
実際に、誰の目にも触れることのない物語を黙々と書き続けたヘンリー・ダーガー 氏という人物がいましたが、彼の死後その作品は世の中の人々の知るところとなりました。それは、彼が「想像」に限りなく近くても「実体」として物語を残したこと、そして彼もまた実体ある人間として誰か(ダーガー氏の場合は大家さん)に認識されていたからだと思います。どちらかが欠けていても、彼の作品が人目に触れることは無かったでしょう。
作品が人目に触れることが彼にとって本望なのか不本意なのかはわかりませんが。
今回ご紹介するラーナー・ラスグプタ著「Solo」 は、そんなダーガー氏とは反対に「想像」を自分の外に出すことの無かった人物のお話です。
この物語は第1部と第2部に分かれているのですが、全体を通して「音楽」と関わっており、その表記が第1楽章、第2楽章となっているのも世界観が統一していて美しいと感じます。
ざっくりと全体の構成を解説しますと、第1楽章「人生」では主人公・ウルリッヒの人生が綴られており、そして第2楽章「白昼夢」では、ウルリッヒが作り出した想像(白昼夢)の内容が綴られています。
この本を読むに当たっては「人生」と「白昼夢」を、読む側が意識して分けていないと混乱します。しかし、ウルリッヒという人物の物語を理解する上では、「人生」と「白昼夢」を合わせて考える必要があります。
私は第1部を読み終わった後に、その「続き」のつもりで第2部を読んでいたのですが、途中で「???」となってしまいました。
あくまでもウルリッヒの実人生は第1部で完結しており、第2部はその続きではありません。これからこの本を読む方は、そのことを念頭に置いておくと物語への理解がスムーズに進むと思います。
第1部の構成を解説しますと、全体が28のセクションに分けられており、いくつかのセクションごとにチャプター分けされています。各チャプターには元素名のタイトルが付けられており、各チャプターの冒頭には現在の年老いたウルリッヒの様子が綴られ、その後にそのチャプタータイトルとなる元素にまつわるウルリッヒの過去が綴られています。
最初のチャプターでは現在のウルリッヒから最も遠い時期のウルリッヒの人生が語られています。それがチャプターが進むごとに現在のウルリッヒと過去のウルリッヒの時間的なギャップが縮んでいくという構成になっており、私個人的にはこれがとても面白くもあり、少し気味が悪くもありました。過去が反復しながら現在に近づいて来る不気味な感覚。
第1部は、音楽と化学に翻弄されたウルリッヒの人生を通して、ウルリッヒの母国であるブルガリアの激動の歴史が綴られています。
多数の日本の人にとって「ブルガリア」という国について知っていることといえばヨーグルトと琴欧州関(現・鳴戸親方)だけ・・・という感じなのではないでしょうか。日本では特にヨーグルトのイメージが強く、私はこの本を読むまでは「ブルガリア」と聞くと「伝統的な民族衣装を着た女性が緑豊かな牧場で育った牛たちの乳からヨーグルトを作る」という牧歌的で平和な風景が浮かんでいました。
しかし、この本に描かれているブルガリアからはそのようなのどかさはみじんも感じ取ることができません。そしてそもそもブルガリアが王国なのか共産主義国なのかすら、そもそもどこにある国なのかすら、何ひとつとして知らないことに気付きます。
第1部を読み進めていくと、自分の人生とウルリッヒの人生が重なって見える瞬間が度々ありました。生まれた時代も国も環境も違うけれど、とりあえず衣食住を確保している状況の人間の人生というものには共通するものがあるのだと思います。それは人生のステージでの悩みかもしれないし、不安のようなものかもしれない。決して明るいものではない何かが共鳴して重なる瞬間がありました。
この小説では、時にうっとりと心を奪われるような美しい文章表現に遭遇します。私がこの本を読んで最も美しい文章だなと感じたものを以下に引用してご紹介します。
“そして、彼女が公然と、遠慮なく自分に微笑みかけるのを見て、ウルリッヒは我を忘れた。彼はそれ以来ずっとその微笑みを手放さなかった。微笑みがだんだんその時と場所から離れ、最後にはマグダレーナ自身から離れていっても。”出典:Rana Dasgupta(2009)「Solo」(西田英恵訳(2017)白水社 p85-86)
これは表現の美しさに隠して、ウルリッヒの純粋かつひとりよがりな性質をも表していると思います。ウルリッヒなりに物事の改善を図ろうと行動するものの、物事を俯瞰的に捉えることができず、その純粋さは最後まで他の誰かの期待に応えることはありませんでした。
この本は、全体を通じて「人生」というものを綴っていますが、改めて「人生」というものを考えてみると、果たしてそれが根本的にどういうものなのかわからなくなってきます。
たとえば人生に成功や失敗というものがあるのか・・・人の数だけ答えはあると思いますが、ウルリッヒが最後にたどり着いた答えは「人生に成功や失敗などというものは無い」ということでした。「人生は量に過ぎない」という考え方が印象的だったので、下記に引用してご紹介します。
“人生は量にすぎない。彼にとっては、土の山やバケツの水に失敗を見てとれないのと同じで、人生にも失敗は見えない。このような盲目の物質には、失敗も成功もなじまない。”出典:Rana Dasgupta(2009)「Solo」(西田英恵訳(2017)白水社 p201)
確かに、バケツに溜まった水が多くても少なくても、そこには成功も失敗も見えません。もしそれが見えるとしたら、それは「バケツに規定量の水を溜めるゲーム」をしている時だけなのだと思います。
そう考えると、人が人生に成功や失敗という価値を付けるのは、自分あるいは自分以外の誰かを相手に規定量の人生を溜めるゲームをしているの時なのかもしれません。その規定量は自分で決めている場合もあるし、誰かに決められている場合もあるでしょう。楽しくゲームするなら良いけど、苦痛を感じてまで参加する必要もない気がします。
いろいろあったり無かったりする人生を生きてきて、自分が「今」手にしているものは何か、人生で最後の最後まで残ったものは何か。ウルリッヒの場合は人生を通して創り上げてきた「白昼夢」がそれであり、外部から何かを奪われたり押し付けられたりしてきた実人生において、それだけは何者にも奪われることも押し付けられることもない聖域にあるものだったように思います。
時代の流れや状況や環境は、自分の意とは違うところで変化して、そのうねりを有無を言わさずにぶつけてきます。たとえ持っているものをすべて奪われても、決して奪われることのないものを持つことができる。目に見えず、耳に聞こえず、誰も触れられず、誰にも知られず、自分の命とともに消えてしまうものであっても、それは今たしかにここにあって自分の心を満たす・・・。
マッチ売りの少女の話にも似ていますが、主人公が最後に幸せだったか不幸だったかは本人にしかわかりません。もし読む側がこの物語を悲劇だと感じたとしたら、それは読む側が「規定量の人生を溜めるゲーム」に参加しているからかもしれません。
とはいえ、ウルリッヒのように「人生は量に過ぎない」と言い切るのは、現役で働いて社会生活を送っている人間にとっては難しいことだと思いますし、果たしてそれが人間の真理かというとそうではないと思います。
ウルリッヒ自身、定年になって視力も失い、外出することもなく家でテレビの音声を聞いたり白昼夢を見たりする日々の果てに「人生は量に過ぎない」ことに思い至ったのであり、いわば仙人や修行僧のような、他者を排除して隠遁生活を送る者特有の究極の思考に似ているところがあります。
人間というものは、2人集えば比べる生き物なのだと思います。何を持っているか、何を持っていないか。高い身長、長い髪、高価な装飾品、社会的地位、人脈・・・などなど。
「持つ」「持たない」という意識は、人間が生きている以上手放すことができないものなのかもしれません。
物質でいえば、あれを買ったこれをもらったと「持っている」ことに優位性を示す人々が居れば、ミニマムという「持っていない」ことに優位性を示す人々も現れてきます。
果てしなく続く比べっこ、どこまで行けば「幸せな人生」と呼べるのか、呼んでもらえるのか。
そのような他人の視点ありきの価値観から解放されたウルリッヒの心は、未来も過去も無い世界と融合したのではないかと思います。
人生をどう捉えるかによって、心は重くなったり軽くなったりします。
V.E.フランクル の言った「人生は義務である」という捉え方で心が軽くなる人も居れば、ウルリッヒのように「人生は量に過ぎない」という捉え方で心が軽くなる人も居ると思います。たまに耳にする「人生は楽しむものだ」という一見前向きな捉え方は、時に心を重くも軽くもするでしょう。
自分にしっくりくる人生の捉え方を見つけると、この公平に流れる時間の中を、もっと心穏やかに過ごすことができるかもしれません。
この本を私がひと言で言い表すとしたら「人生からの解放の物語」です。
興味のある方はぜひ読んでみてくださいね。
Solo-ソロ- | |
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著者: | ラーナー・ダスグプタ |
訳者: | 西田英恵 |
ページ数: | 444ページ |
出版年: | 2017年 |
出版社: | 白水社 |
定価: | 4,070円(本体3,700円+税) |