食品添加物アレルギー
成人してすぐに食品添加物アレルギーを発症した私が考える「無添加」とは。食べられるものは限られていても、おいしく食べて楽しい毎日を過ごしたいものです。
私は生まれてすぐの頃から湿疹が出て、アトピー性皮膚炎と診断を受けたと母親に聞いた。そこまで重度ではないので、中学校に入る頃には治るでしょうと言われていたが、アラフォーの今になっても一向に治らずにいる。
そして成人してすぐの頃には毎日謎のじんましんが現れるようになり、その数か月後に食品添加物にアレルギー反応を起こしていることを突き止めた。
それ以来、私は自然派生活を送っているのだが、同じ体質で困っている方の参考になればと思い、記事を書くことにした。
アレルギーの程度には個人差があるし、何にアレルギーを起こすかというのも個人によって違う。なので、私が食べても問題なかったものでも他の方が食べたらアレルギー症状が出るという可能性は大いにある。記事で食品を紹介する際には、原材料表記の画像も合わせて掲載するので、よく確認して参考にしていただければと思います。
体に取り入れるものに対してアレルギーを持っている人間が肝に銘じなければならないのは、安全確認を怠らないことであると私は思う。他の人から「これは無添加だから大丈夫」と勧められた食べ物が本当に無添加かどうかを自分で確認することを決して怠ってはならない。「無添加」の定義は、人により、食品メーカーにより様々なのだ。
添加物アレルギーを発症して間もないころに、私が知人に「無添加」だと勧められた食べ物で「私にとっては無添加じゃなかったもの」があった。「無添加ドーナツ」を売りにしているお店のドーナツだったのだが、念のために原材料を確認すると「ベーキングパウダー(アルミフリー)」と記載されていた。
私はアルミ入りでもアルミフリーでもベーキングパウダーにアレルギー反応が起きるので、私の中での「無添加」の定義にはベーキングパウダーは入っていない。しかし、このドーナツ店側の立場に立って考えてみると、ドーナツを作る際には通常必ず膨張剤を入れなければならないので(膨張剤を使用しないで生地の厚いドーナツを揚げると爆発してしまい非常に危険なため)、必須材料ということで、添加物とみなさない(=無添加)と解釈しているのかもしれない。
このように、何が添加物で何が添加物じゃないかというのは非常にあいまいなものである。家で「緑茶」を淹れた際に風味付けに抹茶パウダーを振ったら、それは『香料(抹茶)』という添加物を使用したという解釈も生まれるのだ。しかし「抹茶入り緑茶」を淹れた場合は原材料として抹茶を使用しただけということになる。このように添加物は解釈次第という面が強い。あくまでも添加物は「添加する物」なのだ。
なので、大切なのは原材料を自分の目で確かめて、自分の「無添加」の定義と照らし合わせて判断することである。「天然由来の添加物ならオッケー」「合成添加物も天然由来の添加物もNG」「膨張剤はダメだけど重曹なら大丈夫」「膨張剤はすべてダメ」などなど、自分の心や体と相談して、自分にとっての「無添加」を定義して明確な判断基準を作っておくと、原材料確認の際に戸惑わないで済む。
添加物アレルギーを発症したての頃は、自分の体質を恨んで悲観していた私だけれど、最近はとても上手にこの体質と付き合っていけるようになった。
今まで普通に食べられたものが急に食べられなくなったら、ストレスを感じるのは当たり前のことである。食べ物に限らず、今まで出来ていたことが出来なくなるというのは、自分に対してとても苛立ってしまうものなのだ。
耳にタコができるくらい聞いたことのある言葉なのであまり心に響かないかもしれないが、「出来ないことをいつまでも嘆くより、今現在出来ることを見つけよう」という言葉。ストレスの渦の中でいろんな思いがぐるぐる巡るのだが、結局行きつくのはこの言葉だなと私は思う。あれも食べられないこれも食べられないと嘆くよりも、今食べられるものを見つけたほうが人生は楽しくなる。
ただ、ストレスの渦の中でもがいていた時間も、今思い返せば私には有意義なことであったと思う。その時期に自分自身と向き合ったことで、いま目の前で他の人がマックポテト(私の大好物だった)を食べている姿を見ても妬まずに済むようになったのだ。
その人その人によって食べられるものは違うのだということ、そしてその違いを持つ個人に対してリスペクトの気持ちを持つことにより、心理的な軋轢や誤解や葛藤は生まれなくなるのだと思う。
もし自分がリスペクトされていないと感じる時があっても、その人はなぜ自分をリスペクトしてくれないのかを自分なりに考えると、悲しいけれど納得はできる。
私は添加物アレルギーになってからというもの、親族の集まりなどがあると「贅沢なものしか食べられない」「好き嫌いが多い」と言われたことが度々あったが、戦中戦後の食糧難を生き抜いてきた年齢の人達の気持ちになって考えたら、好き嫌いに見えるのも仕方がないし贅沢だと感じても仕方がないのだと思った。
そしてそんな人達でも、いざ自分の孫やひ孫が食品アレルギーを持って生まれてくると、アレルギーが好き嫌いでは無いこと程度は理解するようになっていくのであった。そんな親戚の姿を目の当たりにして、こうやって少しずつ理解は進んでいくんだなぁーと感慨深かったことを覚えている。
北風と太陽の話のように、「何が何でも理解させてやる!」というような強引なやり方では、かえって理解は進まないのだと思う。
私は食べることが大好きなので、食べることと人生の豊かさは比例している。おいしく食べて、健康に暮らす(そこそこ酒は飲むけどね)。
アレルギーを持っていても、おいしく食べて楽しく豊かにゆる~い人生が送れるのだと、これからこのねこじたナチュラルでお伝えすることができればいいなと思っている次第です。